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リチャード・クート(初代ベロモント伯爵、、''Bellamont''と綴られることもある、1636年 - 1700年/1701年3月5日〔当時のイングランドで使われていたユリウス暦では、1年が3月25日に始まった。ヨーロッパの他所で使われていたグレゴリオ暦との混同を避けるために、1月から3月の日付は両暦の年号で書かれることが多い。この記事で、1752年以前の日付は特に断りの無い限りユリウス暦である〕)は、1683年から1689年は「クート卿」と呼ばれ、イギリス議会の議員となり、後に北アメリカ植民地の総督を務めた。アイルランドに生まれ、ウィリアム・アンド・メアリーを早くから支持し、名誉革命で彼らの側に就いた。 1695年、クートはニューヨーク、マサチューセッツ湾、ニューハンプシャー各植民地の総督に任命され、その死の時まで務めることになった。新世界に渡ったのは1698年になってからであり、その総督としての任務の大半をニューヨークで過ごした。マサチューセッツ湾直轄植民地では1年を僅かに超えるだけ滞在し、ニューハンプシャー植民地に至ってはほんの2週間だった。ニューヨークに居た時は、ライスラーの反乱(1689年-1691年)から起きた政治の分裂で終始しており、またヌーベルフランスとの和平交渉にイロコイ族インディアンを関わらせないようにしておくのが難しく、結局成功しなかった。フロンティアでの問題はマサチューセッツやニューハンプシャーでも最重要な問題であり、製材業と、アベナキ族の脅威からの安全確保が任務の多くを占めた。 私掠船の船長だったウィリアム・キッドの主要な財政的後援者であり、キッドはその後海賊になったと考えられている。クートはボストンでキッドの逮捕を画策し、ロンドンに送らせた。キッドはロンドンで裁判に掛けられ、有罪となり、絞首刑に処された。 == 初期の経歴 == リチャード・クートは1636年にアイルランドで生まれた。父は初代準男爵チャールズ・クートの三男である同名のリチャード・クートであり、クートはその次男だったが、成人した中では最初の子だった。母はジョージ・セントジョージ卿の娘メアリーだった。父は1660年にクート・オブ・コルーニー男爵に叙され、父が1683年7月10日に死んだときに、クートが父のクート男爵位を継いだ〔De Peyster, pp. 5–6〕。なお、クートの叔父も父と同じ日にマウントラス伯爵に叙されていた。 クートの少年時代についてはほとんど記録が残っていない〔De Peyster, p. 6〕。1677年、若い女性を巡った決闘で男を1人殺したとされている。しかし、クートはその女性と結婚せず、1680年にブリッジズ・ナンファンの娘で、最終的にウスターシャーのバーツモートン・コートの相続者となったキャサリンと結婚した〔Clifford and Perry, p. 34〕。この夫妻には2人の息子が生まれた〔Burke, p. 135〕。 1685年、カトリック信徒であるジェームズ2世が王位に昇ると、プロテスタントであるクートはヨーロッパ大陸に渡り、オランダ陸軍で騎兵隊長を務めた.〔〔Henning, p. 125〕。チャールズ2世(在位1660年-1685年)に仕えたクート家の記録があったので、宮廷にクートが出仕していないことが国王の注意を引き、1867年には宮廷に呼び戻された〔De Peyster, p. 9〕。1688年、ウィリアム・アンド・メアリーを王座に導いた名誉革命では、最初にオラニエ公ウィリアムを支持した者の1人だった。この働きに対して、1689年には王妃の財務官に指名されることでその忠誠を償われ、この地位を1694年まで務めた〔〔。しかし、そのことはアイルランド議会の好ましくない関心を呼んだ。同議会はこのときも前王ジェームズの影響下にあり、クートの権利を剥奪し、土地を押収した。その結果、1689年11月2日、ウィリアム3世がクートをベロモント伯爵に叙することになり〔De Peyster, p. 10〕、要塞化されたアイルランドの土地77,000エーカー (310 km2) 以上を払い下げた。この土地の下賜は議会で大いに議論となり、最後はウィリアムが撤回することになった〔Clifford and Perry, p. 35〕。またアイルランドのリートリム州の総督に指名されることでも報いられた〔Wills, p. 43〕。 クートは1688年から1695年までウスターシャーのドロイトウィッチを代表するイギリス議会議員となった。1690年代、ジェイコブ・ライスラーの息子が父の汚名を晴らそうとする動きに巻き込まれるようになった。ライスラーはジェームズ国王が設立したニューイングランド自治領に対抗して起こしたニューヨークの反乱を率いた者だった。ニューヨーク植民地総督のヘンリー・スラウターがニューヨークに到着すると、ライスラーは逮捕され、裁判に掛けられ、反逆罪で処刑され、その資産は没収された。ライスラーの息子ジェイコブ・ジュニアはイングランドに渡り、一家の資産を回復するべく論陣を張った。クートはその証拠を調べる委員会の委員となり、議会でライスラーを支持する発言を行った。マサチューセッツ植民地代理人のインクリース・マザーに宛てた手紙で、ライスラーと義理の息子のジェイコブ・ミルボーンはスラウターの行動により「残虐に殺された」という見解を強く述べていた。息子のライスラーの動きは成功だった。議会は権利はく奪を覆し、ライスラー家の資産が回復された〔Leonard, p. 152〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リチャード・クート (初代ベロモント伯)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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